昭和50年07月11日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 こういう風に教えてあります。このみ教えを本当にそうだと合点して、そういう信心に打ち込ませて頂いたら、愈々大磐石です。同時に普通では不可能と思われる様な事でも、大勢掛け声を揃えてすれば持ち上がるぞと仰る。おかげの受けられない筈はないと言う御理解なんです。ですから、どうぞ其の身から打ち込んでと言はれる、只打ち込んだだけではいかんのである。
 それは合楽教会が今日までおかげを頂いて参ります間には、沢山の人が助かりもし、沢山の人が合楽に打ち込んで信心を致しました。しかも家族勢を揃えて、打ち込んで信心を致しましたけれども、つけ焼き刃であった証拠に取れておる。その身から只打ち込んだだけではいかん。次にあります様に、真の信心に打ち込まなければならない。その身から打ち込んでの、真の信心をせよと仰っておる。
 だからおかげが受けられる。さぁお前も参れ誰も参れと言うて、如何に家族中が勢を揃えて信心しておっても、そういう信心はもろいと言うのです。その身から打ち込んでの信心。だからその身から打ち込んでの信心と言うのは、随分沢山の人が、合楽に打ち込んだ事でしょう。今まで二十五六年の間には。それこそ命掛けで打ち込んだ人もあります。親先生の為なら死んでも良かと言う位に打ち込んだ人もあります。けれどもコロッと信心を止めてしまった。アツと言う間に止めてしもうた。
 しかも勿論中心が止めるのですから家族も止めてしまう。だからそう言う事で後が立ち行くとか、良い筈はありません。ありませんけれども打ち込んだと言う事も事実であり、家族勢を揃えておったと言う事も事実ですけれども、結局おかげに打ち込んどったと言う事にしか言えない訳です。それは勿論、金光様の信心すればおかげはつき物ですから、おかげを頂くことはおかしいと言うことでは決してないです。真の信心に打ち来んで行けば行く程、おかげはかげのの形の様に頂けるものなんです。
 だから真の信心に打ち込んだら最後止められない。止められないと言うか、段々信心を深めて行かなければおられないのが真の信心です。昨日のお月次祭に皆さんに聞いて頂いた様に、神様が安心して下さる信心。あの氏子はもう大丈夫どんなに其の身から打ち込んどっても、もうそれこそ命も惜しくないと言うとっても、熱がさめて来るとコロッと嘘の様に信心を止めてしまう。
 つけ焼き刃の信心だからです。だから神様が御覧になってです。あれがあんなに打ち込んどるけれども、ああいう信心では、今に取れてしまうだろうと、淋しい哀れな事だとお嘆きになることだろうと思います。だから神様に安心して頂ける様な信心と言う事を、昨夜聞いて頂きましたよね。私はこれは真の信心からでなければ生まれて来ない。教祖の神様への言うならば憧念心憧れの念。それが只教祖に憧れるというのじゃなくて、教祖の信心に憧れる。そこから求道の信心生活が始まる。
 そこから生れて来る体験。私は合楽での御理解はそうだと思います。私が教祖に対する所の、教祖の御信心に対する所の憧念心。憧れの念が求道の形をとる。そこから実際的に、体験の上から表れて来る。そこに初めて教祖の信心を元にした、独創的なと言うか前人未踏と言われる、そういう道を私は歩いた事になる。そこから真の信心とは、これだと言う風に、私が極言しております事は、如何に神様を大事にするとか、大切にすると言うても、その神様の御働きそのものを大切にせずして。
 神様を大切にしておると言う事は言えない。どんなに麗々しゅうお祭りをしてあっても、どんなに美事なお供えをしておっても、神様の前だけに敬虔な祈りを捧げておっても、それは本当の事じゃないんだ。それはそうしなければおられない事になって来るんだけれども、その神様の御働きそのものを大切にしなければいけない。例えば親孝行と言う事がです、それこそ親を撫でたり擦ったりする様な事だけが親孝行ではない。親の言うておる事思うておる事に、添う事が親孝行なんです。
 その上撫でたりも良かろう、さすったりも良かろうと言う事になるのです。真の信心真の信心と、口を開けばお道の信心では、真の信心さえしとりゃちゃんと助かるがのち言う。或る人が或る教会にお参りをした。私との仲に一寸と気まずい事が起った。そこで○○教会にお参りさせて頂いた。そりゃあんた樺目だけに行く事は要らんがの。真さえ信心すりゃ、どこでん助かるち言わっしゃる。
 真の信心すりゃ絶対どこでも助かるです。所がその先生自身が真の信心しござらんから、いっちょん助かってござらん。私は真の信心真の信心を求めさせて頂きよるが、分からして頂けば頂く程、こういうおかげが受けられる。だから私の言う事について来れば、必ずおかげが受けられるよと言われるなら、まだしもの事。そりゃ真の信心すりゃどこでもおかげが受けられる。そりゃ分かりきった事。所かが、その真の信心を本当にこれが真の信心だと、言い得る信心を身につけておる人が少ない。
 その証拠に真のおかげが現われないじゃないか。真の信心には真のおかげが必ずつきものなんだ。おかげの受け物が大きければ、おかげも大きいと言われてるのと同じ事。真の信心すりゃ、真のおかげが現われるのだと。真の信心さえすりゃ助かるよと言われたけれども、助からなかったと言うて、また当時の椛目に帰って来た御信者がありましたがです。あんまり軽々しゅう真の信心、真の信心と言う事は言えない。
 それもそれこそ恋こがれる様に、教祖の神様の信心に、恋こがれてからの事であったから、暑いも感じなければ寒いも感じない。それこそ近い遠いも感じない。惚れて通えばそれこそ、千里も一里の思いで、求道させて頂く所から生まれた信心が、私が神様をお祀りしておる。こんなに麗々しゅう祀っておりますと言う事だけが、神様を大事にしておるとじゃない。神様を大事にすると言う事は、神様のお働きそのものを大切にする事だ、尊ぶことだ、敬う事だと言う風に私が申します。
 そしてそれが真の信心だと、私は言っております。日常生活の上に様々な問題が起きて参ります。それは私に対する天地金乃神様の求められる修行なのですから、神様の御働きが、そこに始まっておるのですから、どの様な事であっても御事柄として、御の字を付けなければおられない程しの心の状態で、それを受けきって行くと言う行き方が、真の信心だと。だから、真の信心には、必ず真のおかげか伴うて来ると言うのです。そういう真の信心に打ち込まなければならない。
 あの氏子は真の信心に打ち込んで来たから、神様が安心して下さる。そんなら答えとしては、とう言う事になって来るかと言うと、真の信心をさせて頂いておる。昨日高橋さんの例を申しました様に、店の方が事故を起して十万円とられた。二、三日したら又支店の方ヘ泥棒が入って、また十何万円かのお金を盗られた。これ程信心しておるのにどうして次々と難儀が起こるだろうかと言うのではなくて、それはお前逹の不注意からこう言う事が起ったんだぞというのではなくて、是はとても只事ではないぞと。
 これは御神意御神慮のあることに違いはないと言うならば、十万取られ又二十万盗られという時にです、その事に対する御礼参拝があっておると言うことです。真の信心そういう事が起きて来たんです。損をする様なことが起きて来たんです。盗られる様な事が起きて来たんです。そのところに御の字をつけて、受けた姿です。それは凡夫ですから分かりませんけれども、これは只事ではない。神様の深い御神慮の事に違いはないと、受けて立たせて頂く所に、お礼を言わなければおられないものなんです。
 そこまでの信心が頂け分からせて頂いた時に、初めて神様が安心して下さると言う事です。勿論自分の心の中にも、安心が生まれて参りましょう。だからそういう信心にその身から打ち込んでの、信心をさせて頂くならばです、とても家内子供がついて来ん筈はないです。昨日高橋さん、小倉の夏の御大祭でしたから、私がお参り出来んので代参りしてもらいました。実を言うと高橋さんが居られなきゃ、どうにも出来ない問題があったんです。けれども私が十日位前から、その事を申し込んどったんです。
 高橋さんに十日の日だけは、日を空けといて下さい。小倉に参ってもらわんなりませんから。所がのっぴきならない事由が、十日という時間も丁度その時間であった。そこで奥さんに頼まれた。私が行かにゃならんのだけれども、私の代わりが出来るのは、お前より外ないのだから、大変な難しい難儀な問題なんだけれども、とその事を含めて奥さんを出された。家のお父さんばっかりは、神様神様と言やこげな大事な用件まで放からかしてから、そして女の私にこげなこつば押しつけちからと思うかも知れません。
 所がです実祭自分が行って見て、その後先と言うか、神様の働きと言わなければおられない問題が次々と起きて来ておる。まぁこれは金銭の問題ですけども、金額は百二十万でしょう、例えば支払うに致しましても。所が奥さんが行かれてから、急転直下話が変わってきた。それも昨日直ぐ奥さんが、御礼参拝がありました。いっときばかり胸が詰まって声が出らじゃった。そら百万円儲かったちいう様な、高橋さんとこあたりでは、百万円位は大したことはないと思うんです。
 百万儲かったから物が出らんごと感動したのでなくて、その神様の働きに感動した。なるほど、お父さんが一にも神様二にも神様と言うが、こういう働きを受けるためには、お父さんは小倉でなければならなかった。私はこの御用頂かねばならなかった事が分かったんです。だからそういう働きと言うのが起きて来るのですから、家内がついて来ん筈がないです。だからこう言う所が真の信心です。十日も前から十日の日は空けといて下さいよと。小倉に代参りして貰わんならんからとこう言う事であった。
 所が同時にその問題が起きたけれども、神の用を足せば氏子の用は神が足してやると言う様な教えが、そう言う様な場合に生きて来たわけです。その時もし実はあげんお約束しておりましたけれども、こんな大変な問題ですから、私が行かにゃいけませんからと言へば、そりゃそうなと、私が言ったに違いないです。そりゃ無理に高橋さんでなからにゃならんと言う事は、決してないのですから。
 けれども日頃の信心が、そうして生きて来た。そこに生きた信心が、真の信心が家内に言はず語らずの中に、真の信心とはお父さんが、一にも神様二にも神様と言うが、こげな大事な問題を女に押しつけてと、一時は思うたかも知れんけれども、成るほどそう言う行き方が本当だと言うことが家内に分かった。言うならばついて来にゃ居られんのです、真の信心には。そういう真の働きが起きるからです。
 同時に真の信心を、神様が求め給う。それこそ、本気で求めれば求めるだけ、神様の御働きは厳しく、または喧しく言うてでも、そこん所を分らせようとするお働きがあります。それが尊いです、それが有難いです。だから信心が進むのです。昨日も佐田さん所の霊祭の事を申しました。裃と言うのが一本足りなかった。ああいう立派なお祭りさせて頂きながら、ああいう行き届いたお祭りをさせて頂きながら、神様の目から御覧になれば、一本抜けておった、私も分からなかった。
 どう言う事であろうか。人間のする事だから、そりゃ完璧と言う事はないから、けどもそう言う事を神様が、責めなさるはずはないと思うけれども、一つ欠けた物があったと言う事でございましたが、昨日佐田さんのお届けを聞いて、ははぁ成程と感じたんです。その日の御霊様のお祭りが、佐田さんのご兄弟と御先祖と言うか、佐田家の分家に当られるでしょうか、そこのお父さん等の三十年の式年でした。
 だから内々で話されたです。まあ家の子供やら、家の兄弟やらは当然の事だけれども、言うなら分家とか本家の先祖さん迄は、このお祭り切りで後は切って頂こうという話合いをして来とったそうです。そげん別に御霊様ば、どれだけお祭りしたからと言うてですよ、別に手間暇要るこっじゃなか。どんな小さな御霊舎にでも、ちゃんとどれだけの御霊様が入られるごとなっとると。
 だから今度お祭りばして差し上げる事である。そしてこのお祭りきりでこの霊様逹は、向こうに返そうと言う様な話をしておったと言う事です。成程是が真の道に欠けておった。縁あってお祭りをさせて貰うた。是からも愈々助かって貰わなきゃならんと言うのでなからなきゃならんのにその辺の所に、佐田さんの信心としては、矢張り欠けておったと言う事でございます。だから本気で真の信心を求めておられるから、真の事が少しでも欠けると、コリャコリャと頭を小突いてでも。
 叩いてでも又は損をさせてからでも、分からせよぅとする働きがあるから、真の信心は愈々限りなく進められて行くのです。教祖様がどうぞその身から打ち来んだ。もう私こそその身から打ち込んどるとじゃろう。もう合楽合楽、親先生が仰る事ならば、それこそ火の中水の中でもと言う様にあるかとも思いよるけれども、それはどこまでも、その身から打ち込んどるだけであって。真の信心に打ち込んでいない。そこで合楽で言われれる真の信心とは、愈々もって成り行きを大事にさせて貰い。
 すべての事を御事柄として受けて行き、例えそれが何十万の損になる様な事が、次々と起こっておっても、是は神様の御都合に違いはないと御礼参拝が出来る程しの信心が出来た時、私は神様が安心して下さる事になると思うです。そういう信心が家族の者に移って行き、そういう信心が家族勢を揃えて信心するなら、それこそ持ち上がらぬ物でも持ち上がる程しの勢。力と言うものがついて来る事は道理です。皆さんでないとね、信心に楽しみが湧いて来ないです。
 もう芯から有難いものが生まれて来ないです。同時に真のお蔭が伴うてこないです。真の信心には、絶対真のお蔭が伴うて来るものです。と言うて打てば響く様に、おかげは伴うて来るというものではありません。何時の間にか何とはなしに、言うならば貧相病のない世界、それこそ真善美に輝くおかげの世界が開けて来る。そういうおかげを頂いて、初めて神様は喜んで下さる。そういうおかげの頂けれる信心が出来て、初めて神様は安心して下さると言う事になるのです。
   どうぞ。